先人からの「預かりもの」を受け継ぎ次世代に。 日本伝統工芸技術の継承者 No.046 花鏨(はなたがね)彫金家 有馬武男さん
- 2022.03.30
- written by 山本 卓

「コンコンコンコン」と、リズミカルな金属音が響きわたる工房。日本古来の金工(きんこう)技術と西洋のジュエリー技法を融合して、美しい伝統工芸品を生み出す、『花鏨(はなたがね)』。心地良い音が響く先では、彫金家の有馬武男さん(47)が鏨(たがね)で金属板を刻み、作品に命を吹き込んでいる。自然をモチーフにした作品が多く、ペンダントや指輪などのジュエリーだけでなく、箸置きや器など生活を彩るものも多くある。
唐津市厳木町にある『花鏨』の彫金家、有馬武男さんに、伝統工芸技術の継承や、厳木町での地域の暮らしについて伺った。
「鏨(たがね)で花を咲かせる」彫金家というお仕事。

本日はよろしくお願いします。有馬さんは彫金家と伺いましたがどのようなお仕事をされていますか?
金工の中でも彫金といって、鏨やヤスリなどの道具を使い金属を彫ったり打ち出したりして、作品を作る仕事をしています。デザインから起こして、透かし彫りや容彫り(かたちぼり)などの技法を使った彫り、そして仕上げまで行い、完成した作品の販売も行っています。
金工(きんこう)というのは、なかなか聞きなれない言葉なのですが?
金属を加工して工芸品を作ることやその職人のことを指す言葉で、歴史は紀元前までさかのぼります。鋳金(ちゅうきん)、鍛金(たんきん)、彫金(ちょうきん)、象嵌(ぞうがん)という4つの技法に分けられます。鋳金は、型に熱して溶かした金属を流し入れ、冷まして固める鋳造技術です。私も作品から鋳型を取って鋳造して量産することもあります。鍛金の鍛は鍛冶屋といえば分かりやすいでしょうか。金属を叩いて加工する技法一般を含みます。私が主に行っているのが3つ目の彫金で、彫るという字の通り、鏨を用いて彫ることを中心にさまざまな技法があります。
考えてみたら人類が金属を使い始めたときから金工の歴史もあるわけですね。学校でも歴史の時間にいろいろと勉強した記憶が・・・
そうですね、昔から金属は装身具、農機具、武器、仏像や日用品、そして硬貨としても世界各地で使われています。日本の場合、戦が少なくなった江戸時代に特に技巧が発達して、刀の鍔や甲冑の装具など実用性より美しさが重視されるようになり、それに伴って金工師も力を持つようになりました。
しかし、戦中戦後の材料不足もあり、技術継承が難しくなり、全国的に職人の数が減ったようです。他にもいろんな工芸のワザの伝承がとどこおったのは非常に悔しく思いますね。

有馬さんは、基本的にはジュエリーなど身に着ける作品を作られているんですか?
そうですね。もともとは身につけられるジュエリーが多かったのですが、最近は少しずつ変わってきまして、香炉の上を覆う蓋、火屋(ほや)や小さなお皿、箸置きなども作っています。あとは、デザインから制作まで、私が一人で行っていますので、お客様のご要望に応じてゼロから作ることもできます。
製作期間はどのくらいかかるんですか?
一概には言えないです。モノによっては1~2日程度でできますが、数か月かかるものもありますね。
屋号の「花鏨(はなたがね)」の由来は?
明治から昭和にかけて、光村利藻(みつむらとしも)というすごい財産家がいまして、その方が自ら収集した刀装具(鍔や小柄(こづか)など)を図録として残すために作られた「鏨廼花(たがねのはな)」という限定本があるんです。その題名をひっくり返しただけです。(笑)
そうなんですか?! 他のインタビュー記事で「鏨で花を咲かせたい」からと答えてありましたよ(笑)
あ! そんなことも言った気がしますね。そういうことにしていてください!(笑) 本音では、本の影響なんです。
屋号にするぐらいですから、有馬さんの中でもかなり印象が強い本だったってことですよね。
東京の赤坂にあった宝石彫金学院に通っていた時に、先生からよくその本のことを聞いていました。ずっと興味がありましたが、その本は「幻の本」と言われているぐらい、とても希少なものだったのでお目にかかる機会はないんだろうなと思っていました。そんな時に知り合いの古物商の方から「鏨廼花が入ったけど、見る?」って電話がかかってきました。大急ぎで見せてもらいに行きましたが、かなり嬉しかったですね。昔の刀の鍔とか小柄などのデザインや技法に衝撃を受けました。

その衝撃があって、屋号にされたんですね。今の花鏨さんの作品にも大きく影響を与えている部分はありますか?
日本古来の美しさみたいなものを追求しているところにあるかなと思います。自然をモチーフにしている作品も多いですし。私も野イチゴの花とかイチョウの葉などの作品を作っています。最近では唐草模様の作品も多くなっています。これからは水の流れを表現した作品を作れたらなと考えています。

これ金属ですよね! この曲線とかすごく柔らかい雰囲気がします。細かい技術ですね。彫金を始めた人ってすごいですね。
これまで師匠から弟子に伝わっていく過程で発展してきたんでしょうね。そういう意味では、ものづくりは受け継がれていかないと、失うものが大きいんだと思います。新たに技術を開発していくことは、時間が相当かかりますからね。多分1世紀単位じゃないですか。なので、私が発明したものって何もないんですよ。(笑) 先人から預かっている技術を、預かりものとして受け継いでいる感覚です。
絵を描くことが大好きだった。だから画家になりたいと思った。

有馬さんは、幼少期どんな子供だったのですか?
プラモデルを作るのが好きな子供でした。でも、めったに買ってもらえなくて……。だからお菓子箱などをバラバラにして、トラックを作ったりして遊んでいました。でね、ハマってしまうと、もっともっといいものを作りたいと創作意欲が出てきて、トラックの車輪が動くように工夫しました。それを見た母親は「すごいわね!」って驚いていました。
それって何歳ぐらいの時のお話なんですか?
4~5歳ぐらいだったと思いますね。あとはひたすらに絵を描いていましたね。遠くに行けるわけでもないので、図鑑などに載っている蒸気機関車やお花とかを見ながら模写しているうちに、何も見ずに描けるようになりました。それから建造物にも興味が出てきてひたすら描いていました。そして建築を学ぼうと東京にある芝浦工業大学の建築学科に入学しました。
建築学科ですか!描くことが好きから高じて、建築のお仕事をしようと?
そうですね。そこの入学試験というのが特殊だったんですよ。「掃除機と、二又に分かれた水道の蛇口の透視図を描け」っていう問題だったんです!

それは対策も何もできませんね。実力がもろに問われますね。
でもね、僕は子供のころから自分でそういう絵を書いていたので受かっちゃった。(笑)
ところが木造建築に興味があったんですけど、入ってみるとあまりに巨大な橋や建築物を作ることを学ぶところで。だから1年しないうちに大学を中退しちゃいました。
え?せっかく倍率の高い入試を受かって、建設業界での将来が約束されていたのにですか?
学生時代には、課題に沿った作品を作品を作らなきゃいけなくて。「やらなきゃいけない」っていう風になってきちゃうと、私はやる気を無くすんですよね。
それは分かる気もしますが、決断の早さに驚きました。それで今度は絵を学びにヨーロッパに渡られたとか。
はい、イギリスにいたときは大英博物館やギャラリーで一日中デッサンしていましたね。絵画の個展を開催したりもしたのですが、いったん帰国して東京で暮らしました。
世界中の美術品や芸術品に触れてこられたのですね。それでも絵の世界で生きていくのは難しかったのですか。
そうですね、本当に厳しい世界です。そして東京で声をかけてもらったジュエリーの会社でデザイナーとして働き始めたわけです。今までの経験上、絵は描けるので。
絵が描けるといってもいきなりジュエリーのデザインができてしまうものなのですね!
若いころにカルティエの展覧会を見たときに感銘を受けたことはありましたが、まさか自分がデザインするようになるとは思っていませんでした。
これでようやく今のお仕事に近づきました。でもデザイナーさんって作るところはしないですよね、普通。
はい、本来は分業制なので、デザイナーはデザインを絵に書いて、職人さんに渡して作ってもらうんですが、出来上がって来たものを見て「おや?」っていうことが結構ありまして……。
頭の中に思い描いているジュエリーにはならなかったということですか?
そうですね、「ちょっと違うな」って思うことがあって。やっぱり男の子なんでしょうかね。プラモデルを作ることが好きだった性分もあり、「金属をいじりたい」って思うようになってきました。

そこからすぐに専門学校に行かれたんですか?
赤坂宝石彫金学院に行くきっかけは、私が書いたジュエリーのデザインを職人さんに渡した時に言われた言葉でした。職人さんって中学の頃からのたたき上げで仕事をされてきた職人肌の方が多いので、デザインを持っていくと「バカヤロー! こんなもん作れるか!」って。私はデザインが出来ても、彫金はしたことがなかったので、作り手側の気持ちが分からなかった。そう言われた時に、私も生意気なものですから、「じゃ俺もヤスリの一つぐらいかけられるようになってやるわ」って。それで日中は会社で働いて、夜は彫金学院に通って勉強するようになりました。

ある意味、修行に出た感じですね! それから実際に金工家の下でも学ばれたのですね。
先生から初めに渡されたのは、銅板でした。先生は「まっすぐに線を彫ってみろ」と言ったきり、教えもしないし見てもくれませんでした。私はただただ銅板に向かい、金槌と鏨で、真っすぐな線を彫るだけ。1か月が経った頃に、先生から「有馬君、音が違うんだよ、音。その音がリズミカルに、パチンパチンと打てるようになったら教えてやるよ」と言われました。今思えば、この基本が重要なんだと理解しています。
リズミカルに打てるようになるまで、どのくらいかかったんですか?
1年ぐらいですかね。1年間はずっと自分の指を打っていましたね。金槌って指を打つと意外と痛いんですよ。(笑) 「まずは慣れろ」っていう職人の世界を見た感じでした。
有馬さんの負けん気根性といいますか。なんかめちゃくちゃカッコいいですね。
先が見えないからこそ、面白い作品作り。

東京・銀座の宝飾店でジュエリーデザイナーとして働きながら、彫金職人としても実力を付けてきた有馬さん。両方ともできる人って珍しかったのではないですか?
珍しい方だと思いますよ。でも自分の中では楽なんです。だって自分でデザインが出来て、作れた方が早いでしょ。自分のイメージ通りのものが出来ますからね。
それから2008年に唐津市厳木町に戻ってきて、工房「花鏨(はなたがね)」を開業されましたが、今もデザインから製作までお一人でされているんですよね。
そうですね。一人で行っています。お客様の要望に合わせてデザインを描きます。でも、突拍子もないデザインや、うちのテイストに合わないものは「無理かな」とお断りすることもあります。しょっちゅうではありませんよ。(笑)

今までで一番印象的だった発注はどんなものでしたか?
そうですね。工房を始めてすぐの頃に、三重在住のサーフィンをされているご夫婦の方が訪ねて来てくれました。「今度、僕たち結婚するので指輪を作ってくれませんか?」と言うことで話を聞いていたら、いろんなジュエリー屋さんに断られていたそうです。「どんなものを彫りたいのですか?」と聞いたら、葛飾北斎が描いた波の模様を彫ってほしいとのことでした。
指輪に波の模様ってかなり難しいんじゃないですか?
8ミリか9ミリぐらいの幅に彫らないといけなくて。初めは出来るのか疑問でした。でもその時の私の気持ち的に「やってやろう!」ってピタッとお客さんと思いが合わさった気がしたんです。そして指輪が完成。お客さんに手渡した時、かなり喜んでくださいました。その後、ハワイで挙式をした写真の年賀状を送ってきてくれたりしました。難しい発注でしたが、完成してよかったと心から思いましたね。

今までの経験が、全て生かされたお仕事になったんですね。
絵が描けるっていいことなんだなと思いました。
しかしジュエリーの世界も日々変わりつつあります。3Dプリンターを使えば大量に作れるようになりました。もちろんデザインもパソコンでできてしまう。私みたいに手でデザインを書くなんて化石か、絶滅危惧種です。(笑) でも、だからこそ逆に手で描き、手で彫る人もいたほうが面白いのかもしれません。
そこに価値があるかどうかは、世の中の人が決めることなので分かりませんが、私は出来ることなら、先人たちから預かったこの技術を後世へ繋いでいきたい。「技術=預かりもの」だと、そう思っています。
彫金家として、図工の授業の、その先を掘り下げてあげたい。そして移住を考えている方へアドバイス 。

暮らしについてお話を伺いたいと思います。工房があるこの家は、ご実家ですか?
そうですね。築200年ほどです。家の事情もあり、私は2008年に戻ってきたんです。そんなに意気込んで独立したというわけではなく、仕事を辞めて戻って来たのはいいが、プー太郎ではいけないと思ってですね。しばらくして土間だったこの場所を工房にしました。
茅葺屋根の維持も大変だと思いますが、家の内部はどうでしたか?
使ってない竈があったり古いものが山積みで、土間の土の中から柿木が生えていたり、「観葉植物か?」って。(笑) 驚きましたよね。でも一気にするのは大変なので少しずつリノベーションしました。

厳木に戻ってこられてから結婚されたんですか?
そうですね。今も育児をしながら、仕事をしています。ちょっと前まで、朝早く起きて仕事をして、子供たちが起きる前には、ひと仕事を終えていて、そして子供たちが寝静まった夜中に仕事をするような生活スタイルでした。でも今はもうできませんね。昼夜逆転の生活は辛すぎます。
厳木に戻ってこられてこの地域のことはどう感じられましたか?
結束力が強いですね。消防団とか、地域の役とかいろいろあって、みんなが繋がっている。僕は小学生の頃に出てしまっているので、地元ではあるが地元じゃないような感じでした。とはいえ大変だったとは思わなかったですね。

彫金家というお仕事を通して、これから厳木がこんな風になればいいなという思いはありますか?
小学校で工作の時間ってあるでしょ。彫刻とか版画とかやっても、「これがその先何の役に立つの?」って思うかもしれません。例えば版画であれば、極めれば摺師(すりし)の仕事もある。彫金家も同じですし、今学校で学んでいることの「その先の未来」を子供たちに伝えてあげられたらいいなと思いますね。
もし彫金家になりたいですという方がいたら弟子入りOKですか?
歓迎しますよ。もし住み込みしたいというのであれば、空き家もありますし。彫金って、体力と集中力、そしてどこまでハマれるかだと思います。彫金技術は簡単に教えることはできません。私もまだまだ勉強中の身です。基礎的な事なら教えられますが、できるまでトコトンやってもらいます。ただし教え方は、うまくないと思いますが。(笑)
最後に、これから移住を考えている方にアドバイスをいただけますか?
田舎の持つ環境の良さはあるかと思いますが、課題もたくさんあります。人口減少や様々な問題があり、生活面では、どんどん不便になってきています。だから夢や理想はあってもいいけど、しっかりと現実を把握することも大切ですかね。
この工房に足を踏み入れた瞬間から、周りとはまったく違う世界観を味わうことができました。お忙しいところお時間いただきありがとうございました。
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<お世話になった取材先>
有馬武男さん
彫金家
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<お世話になった取材先>
有馬武男さん彫金家
1975年唐津市厳木町生まれ。彫金家。幼少期から絵を描くことが大好きで、大学進学で上京。芝浦工業大学工学部建築学科を中退し渡欧。その後ジュエリーデザイナーとして活躍する傍ら、金工家・泉公士郎に師事して鏨の技法を学びながら赤坂宝石彫金学院に通う。インターナショナルパールデザインコンテスト銀賞、フレッシュマンジュエリーデザインコンテスト入選を果たす。銀座の宝飾店に勤務し、ジュエリーデザインを担当。2008年唐津市厳木町に工房「花鏨」設立。
花鏨(はなたがね)
〒849-3112 佐賀県唐津市厳木町中島1402 有馬 武男
「道の駅きゅうらぎ」より1分/佐賀市内より30〜50分
TEL 0955-63-3220
予約制のため事前に電話・お問い合わせにてご予約ください。
◆電話予約受付 9:00〜21:00まで
◆メール予約受付 24時間
◆営業時間 10:30〜17:00(16:30最終受付)




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<取材記者>
山本 卓
「佐賀のお山の100のしごと」記者/地域の編集者(地域おこし協力隊)
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<取材記者>
山本 卓「佐賀のお山の100のしごと」記者/地域の編集者(地域おこし協力隊)
大阪府高槻市出身。10代のころから役者を志す。夢を叶えてCMや大河ドラマをはじめ映画や舞台で活動。劇団「ブラックロック」の主宰を経て、海外公演を自主企画で成功させる。その後、キー局情報番組のディレクターとして番組制作に携わる。夢は日本を動かした100人になること! 地域の人に密着した動画作成や、人の顔が見えるマップを作りたくて移住を決意

