こだわりの自然養鶏。本間農園の原点は「本当に幸せな生き方」 No.013 本間昭久さん
- 2020.08.29
- written by 山本 卓

神崎市脊振町。360度森林に囲まれた場所にある本間農園。看板商品は国内でも珍しい平飼い養鶏の「ほんまの卵」だ。新鮮な空気、きれいな水、太陽の光、大地がそろった最高の場所で「健康な鶏を育てること」に愛情のすべてを注ぎこむ本間昭久さん(48)。
極力国産の飼料を与え、堆肥を大地に還元するこだわりの自然養鶏法を行っている本間さん。
そもそも養鶏を生業にするつもりがなかったというのが驚きだった。なぜここまでこだわって養鶏をされているのだろうか? 今回は本間さんの原点についてお話をお伺いしました。
国内でも珍しいこだわりの自然養鶏法。「ほんまの卵」を作るためのこだわりとは?

本間農園の「ほんまの卵」いただきました! ものすごくおいしかったです!
ありがとうございます。今は加工商品にも力を入れていまして、卵屋さんだからこそできるスイーツやプリンの販売。そして、その場で親鳥の肉を美味しく食べてもらえるように移動販売用のキッチンカーも作りました。
本間さんの中で一番おいしい卵の食べ方はなんですか?
卵かけご飯ですかね。ごはんの真ん中にくぼみを作り、直接卵を落とします。それから少しの醤油を垂らして、ざっくり混ぜて食べてみて下さい。シンプルですが、その食べ方が一番おいしいですね。

おいしい卵を作るためにこだわっていることは何ですか?
健康で元気な鶏を育てることです。産まれたばかりのヒヨコに一番最初に与える餌ってなんだかわかりますか?
一番最初ですか? なんでしょう? 昔、インコを買っていた時はお湯でふやかしたやわらかい餌を与えていた記憶はあるんですが。
実はね、玄米なんです。飼育方法にはいろんな考え方があるんですが、本間農園では、硬い玄米を一番最初に与えています。産まれたてのヒヨコに硬いものを与えるってスパルタに思うかもしれませんが、玄米を与えることで、どんなものでも消化吸収できる丈夫な胃腸が作られます。鶏の人生、つまりは、鶏生(とりせい)を健康に全うしてもらいたいという考え方から玄米を与えています。

鶏舎を見させていただいたのですが、とても開放感を感じました。飼育方法のこだわりは他にもあるんでしょうか?
飼育方法でいいますと「平飼い」をしています。この方法は全国的にも3%ぐらいじゃないでしょうか。通常だと1羽ずつ狭いゲージに入れる、ゲージ飼いをする養鶏場が多いです。私の考え方として、鶏には自由に生活して、ストレスを感じてほしくない。なので、この平飼いにこだわっています。
そして、鶏たちに太陽の光をいっぱいに浴びて元気に育ってほしいと、天井の屋根をスライド式にして、鶏舎内に太陽の光が差し込むようにしました。安定した卵を消費者の方に届けるために、日本では、空調の効いた閉鎖された空間での養鶏が一般的です。でも私は「環境に鶏を合わせる」というよりは、「鶏に環境を合わせたい」と考えているんです。のびのびと健康に生活できる環境を作ることで、鶏たちが元気に育ち、美味しい卵を産むことができると考えています。
養鶏の仕事で一番大切にしていることはなんですか?
自分にとって当たり前のことを当たり前にやることだと思います。原理原則は人間も同じですが、
鶏はシンプルな分、結果も出やすい。テクニックや知識よりも、素直さと謙虚さの方が大切なんじゃないでしょうか。だから、何事にも手は抜かない。手を抜いた瞬間すべてが崩れていきますからね。あとは、自分自身がどれだけ楽しめるかですね。(笑)
本間さんにとって仕事とは何ですか?
表現の場ですかね。農業を通した業者の方や飲食の方など別業種の人との繋がりがめちゃくちゃ面白いんです。その繋がりから、新しいモノが生まれていく。アーティストとかクリエイターが作品を作り表現するように、農家は生産物を通して自分の思いを表現するんだと思います。
本間さんの生き方の原点は、共同体との出会い。

本間さんが養鶏を始めたきっかけは?
もともと養鶏をしたいと思って始めたわけではないんです。お菓子職人だった父の背中を見て育ってきたので、潜在的に何か手を使って生み出すということはすごいなと思っていました。そして高校2年の時に漫画「はだしのゲン」を読んで衝撃を受けたんです。「文明の進歩の先がここに行き着くなら『社会』とか『人間』って何だろう」と。それから自分の中にあったエネルギーを外に向けてみようと、休みの日にバイクに乗って旅に出かけたんです。その時に有機農業を大々的にやっていた有名な共同体と出会ったのが、農業(養鶏)との出会いでした。
その共同体ではどのようなことをやっていたのですか?
共同体は「本当の幸せな生き方」を目指す体験重視の「教え育てるから学び育つ」という考え方で、私は主に養鶏(採卵鶏)や養豚など畜産について勉強をさせてもらいました。また、畑仕事を通して農業の奥深さを知りました。共同体には約10年間お世話になりましたが、その時間は30年分ぐらいの価値があったと思います。今考えると共同体が私の原点です。
その生活の中で一番よかったなと思う出来事は何でしたか?
「10年後こんな人になりたい」と思える師匠との出会いです。その師匠は経営不振に陥った農場を、たったの3か月で立て直してしまうほどの、農業界のレジェンド的存在で、ものすごく厳しい方でした。例えば道具の扱い一つにしても、普通農作業している時、「また後で道具を使うから」とそのまま置きっぱなしにするじゃないですか。でも師匠は「三流は終わっても片付けてない。二流は終わって片付ける。一流の仕事とは農作業が終わるころには道具も片付け終わっている」って言うんです。それを上から口だけを出すのではなく、師匠は背中で語るんです! いろんなことを私に注ぎ込んでくれました。
本当にやりたいことは何かを探す旅。そして、たどり着いた養鶏という道。

共同体を出てからすぐに本間農園をスタートしたんですか?
すぐに本間農園を始めたわけではなく、いろんなことを経験してきました。29歳で共同体を出てから、山小屋で働いたり、バイク工場で働いたり。中国へ旅に出かけたこともありました。帰国後、知り合いが熊本県でバイク屋を立ち上げるということで、手伝いをさせていただいたこともありました。そして共同体を出て1年後。30歳の頃に、妻と結婚をしまして……。
本間さん。29歳から30歳って、今のお話は約1年間の出来事だったんですか?!
そうですよ。いろいろありましたね。(笑) その後、バイク屋が倒産をし、私自身、社会勉強が足りないなと痛感しました。結婚もしていましたので、これからは自分の為だけでなく家族のために生きていかなくてはいけないと思い、営業職に就きました。自分では向いていないと思っていた営業職ですが、営業成績もよかったので、会社から重宝されました。しかし自分の中で商品を売れば売るほど心が荒んでいくような、ストレスを感じるようになってきました。
そんな時に、自分は「もう一度農業をやりたい」と思うようになっていました。とてもしんどい時期でしたが、今思えば逆に良かったと思いますね。農業とは全く別の職種を経験することで、自分が本当にやりたいことは農業だったのだとわかりました。それから会社を辞め、熊本の阿蘇の麓で、畜産の仕事をしていました。その時期に訪ねてきてくれた前職の社長さんとの出会いが脊振に来るきっかけになりました。
脊振に来てからは何をされていたんですか?
平成13年頃、食品リサイクル法が施行されまして、食品業者が出しているゴミの20%をリサイクルしなければいけなくなりました。そこで前職の社長さんから「廃棄される食品をリサイクルして家畜の餌を作るプラントを脊振に作るから来てほしい」と声をかけていただきました。全国でも先駆け的なプラントでしたし、今ではフードロスという言葉がありますが、昔は、大量仕入れ大量廃棄の時代。まだ十分食べられる物なのにもったいないと思っていて、「家畜の餌としてリサイクルするためのプラントを作れるなら」と。自分自身すごくやりがいを感じ、共同体時代に培った知識や経験を活かせる情熱を傾けられる仕事に出会えたかなと思いました。それにその社長さんから「いずれ養豚場を一緒にやらないか」と言われていたので、二つ返事で脊振に家族で引っ越してきました。
初めは養豚をやりたかったのですか? 養鶏ではなかったんですね?
鶏ではなく、本当は豚の放牧をしようと考えていました。しかし、養豚をするということは匂いをはじめ地元の方の理解がいろいろと必要ですし、豚は加工しなければ売れないです。子豚をそのまま「はい、どうぞ」ってわけにはいかないでしょ。(笑) 設備投資にも何億円単位でお金がかかってしまう。新規参入をするには難しい。そこで養鶏だと卵をそのまま売れるし、初期投資した分の回収は結構早い。スタートを切るのなら養鶏がいいかなと思いました。会社に勤めながら、仕事以外の空き時間は養鶏をしたり、田畑で野菜やお米を作ったり。農業というか農的暮らしが始まりました。
養鶏を仕事にできているのは「すぐに諦める過去の自分」がいたから。

今まで農業を辞めたいと思ったことはなかったんですか?
本間農園を始める前に農地の取得に2年間ほどかかりました。農地取得の手続きが本当に大変で。その2年間は帆をあげたのに風が吹かないみたいな無風状態でした。その時期が今までで一番しんどかった。当時の生活は、昼間は農業、夜は24時間営業のガソリンスタンドのバイトでした。夜中の12時ごろにガソリンスタンドのトイレ掃除をするんですけど、疑問が出てくるんです。
「農業がしたいと会社を辞めて、両親にも反対されてこの道を進んできた。なのになんで今、深夜に便器をピカピカに磨いているんだろう?」って。(笑)
トイレの天井を見上げながら「もし農業を辞めた方がいいのであれば誰でもいいから、徹底的に道を断って下さい」って願ったんですよ。あ! なんの宗教にも入ってないですよ。(笑) 諦めが悪い人間なんで、1%の望みがあると諦められない。それに少しでもチャンスがあったのに、やれなかったという後悔が残る生き方だけはしたくなかったんで。
昔から諦めずに何でもチャレンジしてきたからこそ、今の本間さんがあるんですね。
実は幼少期の私は、何事もすぐに諦める人間でした。今も思いますが「なんであの頃は、やる前にできないとか言って諦めてきたのだろう」と、ものすごく悔しいんです。その幼少期の悔しさを知っているから、諦めずに本間農園を始められたのだと思います。人生は1度きり。やらない後悔よりやる後悔がいい。現在や未来の自分を支えてくれているのは、悔しい思いをした過去の自分がいたからだと思います。
移住を考えている方へ「日本人は昔から『よそ者』だから大丈夫」

これから移住を考えている方へアドバイスがあればお聞かせいただけますか?
長い歴史を見てみても、みんな「よそ者」なんですよ。日本人は大陸から来た移住者です。移住する時に多くの方が不安に感じることのほとんどは、人間関係だと思います。
私は、もともとよそ者だし、「あえて無理に溶け込む必要もないな。自分らしく。」と楽観的に考えています。ですが、コミュニケーションや挨拶というのはすごく大切です。意識するかしないか、ではなく大切なこと。
それに「風の人(移住者)」と「土の人(地元の方)」という考え方があって、両方が合わさってようやく「風土」ができる。地域活性には、風の人と土の人、両方の考え方が必要なんです。だけど風と土は価値観が違うので、お互いの良さを認め合いながら生きることが、地域活性のカギになると思っています。
本間さん。本日はありがとうございました。
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ー 編集後記 ー
本編では書ききれない本間さんの壮絶な経験話はまだまだあります。例えば、家賃5,000円の古民家に家族で住んでいたこと。夏、畑作業をしていた時、ギラギラの太陽で背中に大火傷してしまった話など。私の想像を超えるお話ばかりでした。大変な経験をしてきた本間さんは笑いながらこう言います。「強烈な体験をしてきましたが、すべて面白かった。やっぱり記憶に残るのは良い経験より辛かった経験でしょ。でもね、辛かった経験の方が面白い。(笑)」と。すべてを笑顔に変えていく、本間さんの生き方や姿勢が、僕はほんまに好きです。


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<お世話になった取材先>
本間農園
本間昭久さん
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<お世話になった取材先>
本間農園本間昭久さん
栃木県出身。2009年に神埼市脊振町にて平飼い養鶏の卵を中心とした「本間農園」を始める。シンボルマークは「稲とニワトリ」。いかに鶏を健康に育てられるかを追求している。自然養鶏法で元気に育った鶏から産み落とされた「ほんまの卵」は絶品。近年では加工商品にも力を入れており、生産者だからこそ作れる素材を活かした極上のプリンやスイーツ、ウインナーも販売中。
本間農園(ほんまのうえん)
〒842-0201
佐賀県神埼市脊振町広滝1035-5
TEL:0952-59-2344
FAX:0952-59-2344




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<取材記者>
山本 卓
「佐賀のお山の100のしごと」記者/地域の編集者(地域おこし協力隊)
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<取材記者>
山本 卓「佐賀のお山の100のしごと」記者/地域の編集者(地域おこし協力隊)
大阪府高槻市出身。10代のころから役者を志す。夢を叶えてCMや大河ドラマをはじめ映画や舞台で活動。劇団「ブラックロック」の主宰を経て、海外公演を自主企画で成功させる。その後、キー局情報番組のディレクターとして番組制作に携わる。夢は日本を動かした100人になること! 地域の人に密着した動画作成や、人の顔が見えるマップを作りたくて移住を決意

