ひとり農林水産業者。七山で1次産業すべてを生業にする男。 No.027 長尾達實さん
- 2021.04.24
- written by 山本 卓

桜が満開になったこの季節。木々は青々とし、川に流れる水はキラキラと輝き、山はとても優しい空気に包まれていました。佐賀県唐津市七山で生まれた長尾養魚場の長尾達實(ながおたつみ)さん(72)。お父様がこの七山に移住し、手作業で田んぼを作り、家を建て、家の周り一帯を開拓してこられたそうです。お父様から受け継いだこの土地を愛し続けている長尾さんにお話を伺いました。
養魚という仕事は、技術より水が大切。

本日はよろしくお願いします。養魚のお仕事とは、どのようなものですか?
長尾養魚場では、ヤマメやニジマスを卵や稚魚から養殖し、販売を行っています。最短でも10~11か月ほどで大きく育ちますね。卵を2万個ほど買い付けてきて、そのうち1万匹ぐらいが出荷できるサイズに育ちます。
鳥に狙われてしまったりして、数がそんなに減っちゃうんですね。魚を育てるために、どんなことをされているんですか?
主に、餌やりと掃除です。卵から孵化した稚魚が餌を食べるようになってきたら、1時間おきぐらいには餌をあげないといけないんですよ。人間の赤ちゃんでも、1時間おきにミルクをあげるでしょ。魚も同じで、体が小さい分、一度に大量の餌を食べることができません。だから1時間おきに少しずつ餌を与えていくんです。
そして魚の成長に合わせて、魚を選別して、別の池に分けていきます。選別をしないと小さい魚は小さいまま、太ったやつしか大きく育ちませんから。
掃除は、どのぐらいの頻度で行うんですか?
1か月もしないうちに全部の池を掃除していきます。魚を育てるうえで大切なことは、技術よりも水です。どんなに魚を育てる技術を持っていても、水がダメならダメですから。この七山は、水がきれいですし、水温もバッチリです。水温が夏場でも18度以上になってしまうと魚が弱ってしまうので、魚を育てる環境でいうと七山は適している場所だと思いますよ。

養魚を始めたきっかけは、行き当たりばったり?!

長尾さんが、養魚の仕事をすることになったきっかけは、なんだったんですか?
昔、七山で国際渓流滝登り大会とかいうものを始めようと地元の仲間で「大雨風(ウーバンブー)」というチームを作ったんです。その頃に「何か新しく特別なものをやったほうが七山の為になるし。面白そうなことをやろう」と思って。そんな時に、私の知り合いの知り合いが養魚をしているという話を聞いて、繋いでもらってから勉強を始めました。大分県や宮崎県なんかにも勉強の為、日帰りしてました。
日帰りでですか?! どのくらいの期間、勉強されたんですか?
1年ぐらいは通っていましたね。初めは池づくりを学んで、それから魚の育て方を学ばせていただきました。養魚という仕事は、まったくやったことのない分野だったんですが、すごく興味があって。私自身、興味があることはやってみたいと思う性分ですので。昭和60年頃から1年間、池の作り方や魚の育て方を教えてもらい、61年頃から七山で池を作り、養魚を始めました。
実際に養魚のお仕事をしてみて大変なことはありませんでしたか?
何年か前に、台風の影響で川の水が大変なことになってしまって、魚が全滅してしまったことがありましたね。その時は、さすがに参りましたね。それ以外は、大変なことなんてないよ。ただ毎日池を見るだけ。(笑) 実は養魚場を作った当時、親父に怒られたんですよ。
え?! なんで怒られたんですか??
親父の稼業は米を作る農家でね。昔、この山を開いて田んぼを作ったりしてきた開拓者だったので、「せっかく開拓した田んぼに、こんなコンクリートの池なんて作りやがって」って怒られちゃいました。(笑) 今では機械を使って作業するけど、親父の時代はすべて手作業で開拓してきた時代ですから。土を運ぶのもザルやカゴなんかを使って、毎日毎日山を開拓していたんです。そんな思い入れの強い土地にコンクリートで池を作ったもんだから怒っちゃたんだね。
その後どうなったんですか?
その年、魚の売り上げ60万円を親父にポンっと渡すと「おお。米よりも、マシたい!」って、親父も納得してくれました。(笑)
長尾さんの育てられた魚は、どこでどうやって売られているんですか?
佐賀県や福岡県内の料亭や、この近くなら三瀬村の「旬菜舎 さと山」へ、いつも卸していますよ。イベントでヤマメの塩焼きやつかみ取りをされる出展者の方にも卸したりします。もちろん直接買いに来る方もいます。それだけではなく、自分で直接ニジマスやヤマメを焼いて食べてもらおうとキッチンカーでの移動販売もしています。

長尾さん自身で、移動販売もされるんですね!
移動販売を始めようとバスの改良している時にね、実は店舗名(屋号)が決まっていなくて。それにも関わらず僕が看板屋さんを呼んじゃってね。国際渓流滝登り大会の仲間たちから、「なにも名前を決めてないのに看板屋さんまで呼んじゃって。ほんと長尾さんは行き当たりばったりなんだから」って注意されたんですよ。その時に僕は「じゃ~行き当たりばったりって書いてくれ。それだけじゃ寂しいから村一番って付けて」と店舗名をその場で決めたんです。(笑) 「村一番。行き当たりばったり」てね。
その場で決めちゃったんですね。なんか長尾さんの座右の銘みたいな感じですね。いい意味でですよ!(笑)
今まで養魚もそうですけど、他の仕事に関しても、人との出会い、ご縁で決めて来たので、行き当たりばったりな人生なのかもしれないですね。(笑)
やりたいことをやっていたら、いつの間にか、農林水産業者になっていた。

養魚をされる前は、なんの仕事をしていたんですか?
前というか、現在は農家もやって、林業もやって養魚もやっていますね。よく「長尾さん肩書は何?」って聞かれるんですけど、「ひとり農林水産業です」って答えるようにしてますね。(笑)
農林業という方は確かに多い気がしますが、水産もやってらっしゃる方って聞かないですよね。
山の中で水産って珍しいでしょうからね。昔、親父と一緒に農業をする傍ら酪農もしていました。
酪農もやっていたんですか?!
玄関の横に牛舎の跡があったでしょ。昔、この地域にジャージー牛が入って来たんですよ。その頃、30件ぐらいが酪農家になったかな。うちでも3頭ほど牛を飼って、搾乳し、牛乳を出荷してました。
農業をやりつつ、酪農もしていたんですね! いつ頃まで酪農をしていたんですか?
養魚をし始める時期だから、昭和の終わり頃までかな。酪農を辞めるきっかけは生産調整です。国の方針で「牛乳が余っているから生産調整をしろ」って言われてね。うちでも1日50キロから60キロの牛乳を出荷していたんだけど、そのうちの何%かは捨てなさいって言われてさ。職員の人が牛乳に食紅を入れて真っ赤に染めていくんですよ。
え? なんでそんなひどいことをするんですか?
そのままの牛乳だったら、親戚とかに配ったり売ったりするかもしれないと思ってでしょうね。食紅で真っ赤に染めれば、使い物にならないでしょ。だから捨てるしかなかった。「牛が一生懸命出してくれた牛乳を、なんでこんなに粗末にするんだ。こんなことならやってられない!」って酪農家を辞めたんです。
酪農家を辞めてから、養魚と林業を始めたんですか?
養魚が昭和の終わりで、林業を始めたのは平成の始めだね。林業の会社名を「平成林業」って屋号にしたのも、テレビで「年号は平成です」って流れたのを見て、すぐに看板屋さんに「平成林業って書いて」って言ったんです。(笑)
さすが長尾さんですね! 行き当たりばったり!(笑) 1年間を通して農業、林業、水産業の仕事の割合はどんな感じなんですか?
林業5割、水産業3割、農業2割ぐらいですかね。春先から米作りをしながら、養魚の仕事をする。枝打ちや間伐の依頼があれば山へ行き林業の仕事をする。秋ごろにはイベントが多くなると林業はせずに魚を卸したり移動販売をしたりと水産業が多くなる。1年を通してスケジュールがあるわけではなく、お客さん中心にスケジュールが埋まっていくんです。

長尾さんの行動力が凄すぎて圧倒されますね。ひとりで農林水産業をすべて網羅している仕事スタイルは大変ではないですか?
大変なことないよ。田んぼは米を育てればいいし、養魚は池を見ていたらいい、林業は伐採して市場に持っていけばいい。なにも難しいことはないよ。
その中の一つだけに生業を集中すると山で生きていくのは、難しいですか?
そうだね。米だけではお金にはならないし、養魚だけでもお金にはならない。ただお金の問題ではなくて、自分がやりたいと思ったことをやってきたら、いつの間にか「ひとり農林水産業」になっていた。それだけの話だよ。(笑)
一つ一つの仕事が長尾さんの人生のパズルみたいに組み合わさってきた感じがしますね。
親父の開拓してきた土地だから、守りたいと思える。

スゴイ広い田んぼですね! この辺り全部長尾さんの田んぼなんですか?
そうだね。今はこんなにきれいになっていますが、昔、親父たちがこの七山に来た時は荒地だったんですよ。こうやって山開きをしてくれたおかげで、こんなに開けた田んぼが山奥で確保できているんです。今思うと、当時は作業するにも機械がなく、すべて手作業していたんだから、ほんとすごいですよね。
長尾さんの生まれは七山と言ってましたが、お父様はいつ七山に来られたんですか?
親父は、福岡と佐賀県の県境に近い大野島出身の7人兄弟でした。島にいても仕事がなかったので、開拓事業の一環で、七山に移住してきたんです。それから七山のこの土地を開いて田んぼ作って、開拓していきました。親父は百姓一筋の堅物な人でしたね。
お父様の背中を見て育ったから、ひとり農林水産業を行う長尾さんが出来上がってきたんですかね?
そんなことないですよ。親父のようになりたくないと思っていましたね。反面教師的なところがありました。親父は堅物でしたし、お酒も飲まない人でした。逆に私はお酒をめちゃくちゃ飲みますしね。(笑)
お酒を飲むから今の仕事スタイルになっていったのもあります。私はね「酒は友を呼ぶ」っていつも言うんです。(笑) いろんな人との出会いがあるから、興味が出たこと、面白そうだなと思うことをとりあえずやってみることができた。その繰り返しのおかげで今があると思う。
「酒は友を呼ぶ」山で暮らしていく極意みたいなことなのかもしれないですね。
山で生きるために、なんでもやってみるということだけだよ。周りの人から材木屋なんで「気(木)が多い人だね」って言われる。でもね、気(木)が多いということはいいことだね。材木屋だから。(笑)
自営業ではなく、勤め人になろうと思ったことはなかったんですか?
昔、運送会社で働いていたことはあります。だけど、その会社も無くなって。新しく勤め人になろうとは思わず、自分で仕事を作ったほうがいいなと思いましたね。
なぜ、自分で仕事を作ったほうがいいと思ったんですか?
この七山の土地を守りたかった。どこかに勤めに行くと、通うだけでも大変じゃないですか。だったら、この七山で生活をしながら、仕事ができたほうがいいなと思って。
移住を考えている方へ「自分のノウハウはすべて教えますよ」

長尾さんにとって、この七山はどんな場所ですか?
とても温かい人が多い、住みやすい土地だと思いますよ。
最後に、移住をしたいと考えている方にアドバイスをいただけますか?
若い方々が山に興味を持ってくれていることは嬉しいことです。やる気のある方ぜひ七山に来てください。大歓迎します。
もし、長尾養魚場に興味がある方がいたら継業という形もありですか?
自分が持っているノウハウはすべて教えますよ。なにも隠すことはないので、やる気がある方は是非来てみてください。
本日は貴重なお時間をいただきありがとうございました。
移住相談に関するお問い合わせはこちらまで。
ー 編集後記 ー
「私はね自然を利用しているだけだよ」と取材をさせていただいている中で長尾さんは、よく口に出していました。僕が思う長尾さんの仕事スタイルは、すべてがパズルのように組み合わさり、自然に争うことなく、ごく自然に当たり前のように仕事が増え続けていったのではないかと思います。副業を推進する現代よりももっと前からいかに効率よく仕事をこなすことができるのかを実践されていました。山から流れる水の大切さ、山を活かすための仕事の在り方、面白そうなことをやってみる行動力。長尾さんの生き方は自然体そのものです。長尾さんという人間は、川で泳ぎ優雅で美しさと力強さを感じる魚の様でした。


-
<お世話になった取材先>
長尾達實(ながおたつみ)さん(72)
長尾養魚場
-
<お世話になった取材先>
長尾達實(ながおたつみ)さん(72)長尾養魚場
1949年、唐津市七山生まれ。自然を利用した養魚「長尾養魚場」を営む。そのほかにも農業や林業など一人で農林水産業のすべてを生業にしている。現在も七山で続く「国際渓流滝登りinななやま」の立役者としても有名で、七山の地域活性にも力を入れている。
長尾養魚場




-
<取材記者>
山本 卓
「佐賀のお山の100のしごと」記者/地域の編集者(地域おこし協力隊)
-
<取材記者>
山本 卓「佐賀のお山の100のしごと」記者/地域の編集者(地域おこし協力隊)
大阪府高槻市出身。10代のころから役者を志す。夢を叶えてCMや大河ドラマをはじめ映画や舞台で活動。劇団「ブラックロック」の主宰を経て、海外公演を自主企画で成功させる。その後、キー局情報番組のディレクターとして番組制作に携わる。夢は日本を動かした100人になること! 地域の人に密着した動画作成や、人の顔が見えるマップを作りたくて移住を決意

