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【インタビュー】福祉の当たり前を問い続ける──原田啓之さんとPICFAがつくる、「福祉 × アート」という新しい日常

【インタビュー】福祉の当たり前を問い続ける──原田啓之さんとPICFAがつくる、「福祉 × アート」という新しい日常
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佐賀県基山町の静かな町なかで、「アートを仕事にする」という新しい福祉のかたちを実践するPICFA。施設長の原田さんは幼少期の体験や想いを原点に、福祉の現場へと歩みを進めてきました。そして既存の枠組みに違和感を抱きながら、アートと仕事を軸に挑戦を重ね、日本初のアートを仕事にした就労支援施設を立ち上げます。その取り組みは、障がいのある人たちの「一生の仕事」として社会へとつなぎ、多くの人の心を動かしながら、今、着実に広がりを見せています。

原田 啓之(はらだ ひろゆき)さん
医療法人清明会 障害福祉サービス事業所「PICFA」施設長
重度の障がいがある兄との生活を原点に、「福祉を受ける側ではなく、変える側に回る」ことを志す。大学在学中より療育の現場に関わり、学生主体の療育キャンプを企画。卒業後は高齢者施設で指導員として勤務し、本人主体のケアやレクリエーション改革を実践。その後、「アトリエブラヴォ」の立ち上げに参画し、2017年、医療法人内に日本初のアートを仕事にした就労支援施設PICFA(ピクファ)を設立。https://picfa-shop.jp

兄と過ごした時間と母の言葉。そして芽生え始めた福祉に対する思い

原田さんの今の活動や福祉に対する考えは、いつ、どのように形づくられてきたのでしょうか。

今の僕の福祉観の原点は、子どもの頃に過ごした福浜団地(福岡市中央区)での体験にあります。当時はとにかく子どもが多くて、指笛をピーッと鳴らすと、団地のあちこちの棟から「今日はなにをする?」って言いながら、子どもたちが一斉に降りてきました。1年生から6年生まで、60人くらいが集まった。福浜出身者は、だいたいみんな指笛が吹けるんですよ(笑)。

ただ、僕には重度の障がいがある兄がいて、一緒に遊ぶと問題が起きます。サッカーをすれば手でボールを持って走るし、缶蹴りでは缶を持って逃げる。そのうち、友人には「お前の兄貴は連れてくるな」と言われるようになりました。

ある日、家の柱に兄をくくりつけて遊びに行ったことがあったんです。家に帰ると、母がうなだれていて、 「あなたがお兄ちゃんを守らないなら、お母さんが死ぬときにお兄ちゃんも一緒に連れていきます」と言われました。それが、小学3年生の春。その時に、「これは何かを変えなきゃいけない」と思いました。

PICFAの入り口。病院の敷地内にありながら、子どもから地域の高齢者、企業、海外からの来訪者までが行き交う、色々な意味でバリアフリーな場所

当時の僕は、とても純粋で、工事現場に落ちていた長い角材を手に取って、いじめっ子たちが集まる朝の会に、勢いのまま飛び込んでしまいました。僕はすぐに校長室に呼ばれ、当然ながら厳しく指導を受けました。

しかし、その時の担任の先生が、理解のある先生で、暴れたことはしっかりと叱られましたが、同時に相手側にも「これまでやってきた行為が、こうした結果につながったのだ」と伝えてくれたんです。最後に、先生から「お前には、話すための口がある。力じゃなくて、言葉で伝える方法を考えなきゃいけない。兄のことを、周りの人にどう伝えるかを考えろ」と言われました。これらの出来事は、今の僕の原点になっています。

病院の構造を活かしながら、制作・仕事・遊び・地域交流が同時に起こり、人が自然につながる拠点となっている。

学生時代はソフトテニスをやっていて、テニスで生きていくか、福祉に進むか、本当に悩みました。でも、あの幼少期の体験があって、「福祉を変える側に回ったほうが、きっと面白い」と思いました。

高校卒業後は福祉の大学に進み、その時には、自閉症の子ども40〜50人を集めた療育キャンプを学生主体で企画しました。運動会では、「ヨーイドン!」で逆方向に走る子がいたら、そのまま反対側をゴールにして、そのほうが、見ている人も本人にも、圧倒的に楽しいじゃないですか(笑)。それを“当たり前”にしたい。その延長線上に、今のPICFAの現場があります。

違和感からの出発──福祉の現場で問い続けたこと

福祉大学を卒業とのことですが、卒業後はすぐに障害者施設で働かれたのですか?

大学を卒業したのが2000年で、最初に施設を立ち上げたのは2002年。その間、就職先を探したんですが、「ここで働きたい」と思える場所が見当たらなかったんです。そこで一度、障害者福祉から距離を置いて、高齢者福祉の現場で経験を積もうと考えました。
現場の介助ではなく、ソーシャルワーカーのような役割です。配属されたフロアは、「ここに来た指導員は、必ず辞める」と噂される“魔のフロア”(笑)。

そこで働いているうちに僕が感じた現場の違和感があって、事故を防ぐため、という理由で、本当は歩けるのに車椅子に座らせたままなんです。トイレも自分で行けるのに、行かせない。「原田くん、歩きたい」。そう言われるたびに、どうしても無視できなくなって。

家具や棚の多くは地域から譲り受けたものをリメイクして使用。日常的な打ち合わせからお茶会、地域交流まで、多目的に使われている。

理事長と施設長に頼み込んで、本人と家族から「歩いて事故が起きても、文句は言いません」と“念書”を書いてもらい、手すりや自助具を使って、自分でトイレに行けるようにしたんです。

はじめはナースコールが鳴りっぱなしでした(笑)。でも、しばらくすると静かになったんです。自分で動けるようになったことで、介助も減り現場はむしろ楽になりました。 次にやったのは、麻雀の導入。麻雀なら、指先を使うし、頭も使う。そして、会話が生まれて、世代を超えた交流が生まれる。スタッフも1時間交代で参加して、おじいちゃんが若い職員に麻雀を教える。笑い声が増え、「生きる楽しみ」が、そこにありました。
 

その経験が、次の活動にもつながっていくんですね。そこからアートの世界にどう関わるようになるのでしょうか。

その後、障害福祉サービス事業所、音楽の「ジョイ倶楽部」、アートの「アトリエブラヴォ」の立ち上げに関わることになります。準備期間として、1年間、工事現場でアルバイトをしました。アートを仕事にすれば、壁画や内装の依頼は必ず来る。だったら、現場を知っておいた方がいいと思い、技術を身につける目的もありました。

現在PICFAが入っている病院は当時、メンバーの作品を院内にレンタル展示してくれていました。アートの仕事は、どうしても不定期になりやすい。そこで当時の理事長が、「病院で定期的にレンタルしよう」と提案してくれたんです。3か月に1回、10点ほど作品を入れ替える、今で言うサブスクリプション型の仕組みですが、当時はほとんど前例がありませんでした。
 

そこから現在の「病院内に施設をつくる」という話が出てきたのですね。

「院内に空いているスペースがあるから、ここで施設をやらないか」と声をかけていただいたんです。調べてみたら、病院の中に障害者施設が併設されている例は、日本に一つもなかった。厚生労働省にも電話しました。返ってきた答えは、「前例はないけれど、作れないことはない」と。医療的ケアが必要な人たちは、通常は看護師が常駐する別の生活介護施設に行きます。寝たきりの方、痰の吸引が必要な方、嚥下(えんげ)に配慮が必要な方。でも、ここなら医師も看護師もすぐそばにいるのでずっと同じ場所で働くことができる。

結果的に、自分がずっと考えていた「親が安心できる仕組み」に、一気に近づいたと思っています。自分の中で計画を立てていて、2年間かけて考えて、出た結論は「100年かかる」というものでした。法律を変えないといけないし、一部の施設だけ良くなっても意味がない。全国一律で、平等に実現しようとすると、それくらいの時間がかかります。今、僕はその「100年計画」の23年目を走っています。想定外の形ではありましたが、計画を前に進めるための必然的な選択でした。

作品保管庫(元レントゲン室)でメンバー一人ひとりの作品を保管。個人、ギャラリー、海外バイヤーが訪れ、直接作品を選び購入する。海外との接点もここから生まれる。
 
ドアに貼られた「放射線取扱従事者心得」。

中小受託事業者でも寄付でもない、「仕事としてのアート」を目指して

PICFAでは「自由」をとても大切にしている印象がありますが、その考え方はどこから来ているのでしょうか。

基本的にメンバーが主体で、僕たち事務方はサブに回るというスタンスを取っています。出来上がったものを「どう社会に出していくか」という部分では、企業の力も借りますが、いわゆる“仕事を発注する・される”という関係というより、「一緒に面白いことを作りましょう」という感覚に近いですね。緩やかに、楽しみながら一緒に考えてくれる企業が多いのも特徴です。

大学時代に関わっていた療育の現場では、重度障害や多動と呼ばれる子どもたちと接する中で、「苦手なことを無理にやらせる」より、「好きなことに没頭できる環境」をつくるほうが、圧倒的に力を発揮することを何度も目の当たりにしました。

マジック、絵具、水彩、デジタル、刺繍、立体など、表現方法は多種多様。本人が描きたい場所で制作ができる。

5秒も椅子に座っていられないような子が、「トランプを作りたい」と言ったことがありました。普通なら画用紙や型紙を渡すと思うんですが、僕は決めつけたくなくて、「厚紙・画用紙・コピー用紙、どれがいい?」と聞いたら、彼はコピー用紙を選びました。描く道具も、油性マジック。正直、油性マジックとコピー用紙では裏に文字が透けるので、トランプとしては最悪の選択です。でも彼は、それでいいと言うんです。そのまま黙々と描き続けて、気づけば1時間、2時間……最終的には4時間近く座りっぱなしでした。お母さんも「こんなに集中したところを初めて見ました」と驚いていました(笑)。

完成したトランプは、全てジョーカーが描かれ、絵と数字が混ざっていて、何が何だかわからない(笑)。それで彼が「ババ抜きしよう」と言うんです。全部ジョーカーだから、配った瞬間に全部そろって終わるのに、なぜか彼にとってはそれが面白いらしくて、腹を抱えて笑い続けて、僕も一緒に1時間笑いました。

この体験から、「好きなことなら、これほど集中できる」そして「それを否定せず、仕事につなげたら面白い」と強く感じたんです。

かつて病院の託児所だった空間。企業研修や大学ゼミのワークショップ、地域住民との集まり、忘年会などに使われる。「楽しいことをやる」というPICFAの思想が形になる場所。

そこから「アートを仕事にする」という発想に至り、企業との協働を切り拓いていったのですね。そこに至るまで、何が一番大変でしたか。

一番は「前例がまったくなかった」ことですね。当時の福祉施設の仕事は、簡易的なことが中心で、「アートを使って一緒に価値をつくる」という考え方は、誰にも理解されなかったと思います。

そこで、ネットで検索して、上から順に営業に行きました。完全に力技です(笑)。アポイントも取らずに企業へ行って、受付を素通りして社長室に直接行く。「5分だけください」と言って、ドアをノックする。当然、「アポイントって知ってる?」と怒られることも多かったです。それでも「面白いから入れ」と言ってくれる方がほとんどでした。今思うと無茶苦茶ですが、そうでもしないと、話を聞いてもらえる方法がなかったんです。

「元手術室」という構造を活かし、絵の具の汚れや飛散を気にせず制作できる部屋。大型作品や壁画、立体作品の制作も可能で、子どもが来たときには卓球場にもなる柔軟な対応が可能な空間。

当時は「障がい者の絵を使ってあげるのに、なんでお金を払わなきゃいけないの?」と言われる時代です。「仕事ください」と言っても、「じゃあ寄付してあげる」と返ってくる。でも、僕が欲しかったのは寄付ではなく、仕事でした。

そんな時、ある企業の社長さんに、「君は何がしたいんだ」と聞かれて、正直に「仕事が欲しいです」と答えました。すると、「じゃあ、うちの年賀状のデザインをやりなさい」と言われたんです。それが、最初のデザインの仕事です。金額としては小さかったですが、仕事として成立したことが何より大きかったし、嬉しかったですね。

そして、その年賀状を見た別の企業から、「カタログの表紙をやってほしい」と連絡が来ました。そうすると今度は、見積もりの出し方が分からないんです(笑)。アートの相場も、デザインの相場も、何も知らなかったんです。

そこで次は、デザイン事務所などに直接行って、「見積もりについて教えてください」と頭を下げました。そうやって少しずつ「仕事としてのアート」の感覚を身につけていったんです。最初は怖くて出せなかった金額も、「それでは安すぎる」「ちゃんと仕事としての金額を出せ」と背中を押してくれる人たちが現れて、ようやく企業と対等に話ができるようになっていきました。

母親が笑って最後を迎えられる社会をつくるために

原田さんの行動力に驚かされますが、ご本人としては当時の状況をどう感じていましたか。

正直、「動くしかなかった」というのが本音です。当時、兄が通っていた施設の工賃は、月に3000円ほどでした。たまに実家に帰ると、兄はお兄ちゃんぶりたいから、その3000円が入った封筒をそのまま僕に渡すんです。「はい、お小遣いあげる」って言って。兄には金銭感覚がないので、もらったお金を全部私にくれるんですよ。断ると兄のプライドを傷つけてしまうし、もらうのも苦しい。だから、もらったらすぐ使い切りました。物を買うと残るから、友達にラーメンを奢るなどしてすぐ使う。それが僕なりの処理の仕方でしたが、切なかったですね。「兄がもっと稼げる仕組みを作ればいい」そう思ったのが、障がいのある人がしっかり稼いでいくと言う考えの出発点です。

「試しの壁」壁画や内装アートの発色、定着、匂いを確認するためのトイレ横のテストスペース。数々の作品制作におけるはじめの一歩がここから始まった。

当時、日本の福祉施設の平均工賃は今よりさらに低かった。「障害があるからこのくらい」という空気が、当たり前のようにありました。でも、工賃が上がれば、親も助かるし、兄からお小遣いをもらうことにも、後ろめたさがなくなる。今、PICFAでは平均で月6万円ほどの工賃があり、3月には賞与も出ます。それができるのは、アートを「仕事」にしたからです。そして、大学時代から僕がやりたかったのは、「障がいのある子どもの母親が、笑って最後を迎えられる仕組みを作りたい」ということでした。

「この子はこれから大丈夫だろうか」と後ろ髪を引かれて最後を迎えるという状況が多々あります。それを「あと任せたよ、元気で頑張ってね」と、安心して、笑って言える社会を作りたいと思ったんです。

展覧会や芸術祭、企業展示へ向かう作品が並ぶ。大型作品も展示可能で、展示準備や最終調整が行われる。

当初の計画は想定より少し早く進んだ部分も出てきました。ただ、自分が生きている間に完成しなくてもいいと思っています。誰かが引き継いでくれればいい。だから、動き続ける。動くしかなかった、というより、動かない理由がなかったんだと思います。

失敗を通して社会とつながり、親が安心できる未来をつくる

少しずつ軌道に乗り始めたPICFAですが、今、一番大切にしていることは、何ですか?

「失敗できる場をつくること」です。PICFAでは本当に何をしてもいいんです。なぜかというと、人は失敗して学ぶからです。失敗しないように先回りして教えてしまうと、考える機会そのものを奪ってしまう。失敗して、「次どうしよう」と考えるんです。

例えば先日はライブペイントで大阪に行きました。その際、ホテルは必ずシングルの部屋を一人一部屋取ります。重度の障がいの方でも必ず一人で泊まってもらいます。そうすると、まずオートロックという罠に出会う(笑)。次に、ユニットバスという存在を知る。実家暮らしの彼らは、そういうものをいっさい知らないまま大人になることが多いんです。

PICFAオリジナルグッズや、化粧品・食品・海外ブランドとのコラボレーション商品が並ぶ。作品は企業のロゴ、パッケージ、空間デザインへと展開されている。

最初にホテルのフロントで伝えます。「この方は、ユニットバスは初めてなんです。汚すかもしれないので、バスタオルを3枚ください」って。一緒にお風呂に入りますが、最初から何も教えません。そうすると案の定、失敗します。シャワーカーテンを知らないから、床はびしょ濡れになる(笑)。そこで、一緒に掃除をするんです。失敗した後の行動まで含めて、全てが学びです。結果的に、どんな重度の方でも、「ユニットバスではシャワーカーテンを閉める」という行動が身につきます。

これは周りの人たちにもすごく影響するんですよ。ホテルの人が「今回はバスタオル1枚で済みましたね。すごいね!」って言ってくれるんです。それだけで、すごく誇らしい気持ちになる。ホテル側も「また使ってくださいね」と言ってくれる。そこに関係性が生まれると「障がいを理解してください」と言わなくても、自然に会話が始まる。「どんな障がいがあるんですか?」、「ホテルとして、何ができますか?」って。その積み重ねが、将来、家族で旅行するときの安心にもつながるんです。

仕事を通して、お金を稼ぐ、電車に乗る、ホテルに泊まる。みんなが人生を広げる経験を積んでいます。福祉のプロがいる間に失敗することが大事なんです。本人ができるところは全部自分でやる。どうしてもできないところだけ、健常者にほんの少し手を借りる。その関係を、PICFAが主催するイベントなどを通して周囲の人にも体験してもらいます。「これなら私にもできる」と周りの人たちに思ってもらう場をつくっていくことも重要なんです。

施設内の至る所で作業を行うメンバー一人ひとりに声をかけながら、コミュニケーションをとる原田さん。

—100年計画も進行中ですが、改めて今後のビジョン・展望などを教えてください。

とてもシンプルです。本人が楽しく生きる。そして、親御さんたちが、最後を笑顔で迎えられる。それを普通のこととして、普通にやり続ける。全国から、保護者や当事者からメッセージが届きます。それは全部目を通して、なるべく返しています。使命だと思っているから。やっぱり、親御さんは我が子の将来に不安を抱えたままでは死ぬに死ねないですよ。親御さんが安心して最後を迎えられる状況、それを受け入れられる社会を一緒に作っていく、ただそれだけですね。

穏やかな笑顔の裏にあるものは、「動き続ける」と決めた100年計画への覚悟。安心して任せられる社会へ、その歩みはこれからも続いていく。
 
PICFAが入っている病院の入り口のメッセージ。「病院が美術館になる日」

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