みやき町で発展した櫨(はぜ)の木蝋(もくろう)文化を復活させようと、NPO法人山田の風理事長の麻生恵さんがプロジェクトを立ち上げました。
これまで木蝋文化の再生活動を担ってきた「中原(なかばる)の豊かな自然を守る会」が高齢化等により活動が停滞する一方で、天然素材としての木蝋のニーズが急増しており、景観まちづくりも絡めながら、新しい櫨文化再生のビジョンを描こうという企画です。

そのキックオフとして、令和8(2026)年1月16日~30日にかけて、みやき町の風の館にて「みやきの櫨(はぜ)文化展」が開催されました。
今回は、展示期間中の1月18日に働く婦人の家にて開催された「みやきの櫨文化に関するシンポジウム」、続いて1月25日に開催された「櫨染め体験」と「木蝋搾り実演」のワークショップと併せて、その模様をお伝えします!
ハゼノキと木蝋
ハゼノキはウルシ科の落葉高木。
ウルシと同様、樹液に触れるとかぶれるので注意が必要ですが、秋には赤く紅葉するため鑑賞用として植栽されることもあります。
ハゼノキの果実から抽出・精製される天然のロウを木蝋(もくろう)といい、昔から和ろうそくや鬢(びん)付け油などに利用されてきました。

みやき町で発展した木蝋文化
江戸時代末期、佐賀藩の鍋島直正公による殖産興業の一環として、櫨の木蝋作り(製蝋業)が発展しました。
木蝋を漂白・精製したものを「白蝋(はくろう)」いい、佐賀藩は財政難の中、この白蝋や陶磁器、お茶などを特産品として海外に多数出品することで、蒸気船などを購入し、軍艦製造の技術を収集していました。

明治時代になると、電気やガスの普及により灯り(ろうそく)としての需要がなくなり、海外への輸出が主流になっていきます。
木蝋は海外では「ジャパン・ワックス」と呼ばれ、輸出先のヨーロッパでは灯り用の和ろうそくだけではなく、石けんや整髪料、化粧品などにも利用されていたようです。
昭和13(1938)年に旧中原町に鳳星(ほうせい)木蝋有限会社が創業され、昭和15(1940)年当時、三養基郡におけるハゼノキの作付面積は148町にものぼり、県内一の生産量を誇っていました。
この製蝋工場は昭和33(1958) 年まで稼働していました。

みやきの櫨文化に関するシンポジウム
1月18日、働く婦人の家にて「みやきの櫨文化に関するシンポジウム」が開催されました。
基調講演として、奈良文化財研究所景観研究室長の惠谷浩子氏が、「暮らしの風景の保全と地域づくり」をテーマに登壇されました。
全国の景観づくりを起点とした地域づくりの事例をご紹介いただき、みやき町におけるハゼノキ利用の取組の今後の展開へと紐づけるヒントをいただきました。

報告会では、NPO法人山田の風理事長の麻生恵さん、事務局長の蘭命(あららぎ めい)さんにより、みやき町における櫨文化の歴史や、ハゼノキの分布調査の結果などが共有されました。
みやき町のハゼノキの景観は主に3種類。
① 面的に広がりをもって植えられた「ハゼ畑」
② 堤防上などに連なって植えられた「ハゼ並木」
③ ランドマーク的な存在になっている「独立木」
「ハゼ畑」は宅地造成により、「ハゼ並木」は河川改修により伐採されるなど、いずれも失われつつある風景なのだそうです。
その他、中原の豊かな自然を守る会会長の寺﨑彪さんによる、櫨の木蝋文化に関わる普及啓発活動についての発表など、各キーパーソンによる話題提供が行われました。
その後、『みやきの櫨文化をいかに継承し、まちづくりに活かすか?』をテーマに、パネルディスカッションが行われました。
前述のお三方、講演者の惠谷浩子さん、鹿児島県錦江町の「ハゼノキ植人」内田樹志さん、愛媛県に製蝋工場をもつ株式会社セラリカNODAの野田剛弘さんの6名のパネリストを中心として、みやき町産業振興課、地元の中原区長も加わり、活発な意見交換がなされました。

ハゼノキの発祥の地である錦江町で活動されている「ハゼノキ植人」内田さんは、
「木蝋などの林産物を扱う林業は長期的なスパンの仕事。今の若い人はあんまりプレッシャーをかけると嫌がられるので、楽しさをアピールしている。」と、おっしゃっていました。
樹木を育成するという大変な作業だからこそ、地道にコツコツ続けていくことが大切なのですね。
(株)セラリカNODAの野田剛弘さんからは、
「世界の女性が木蝋の化粧品を買う時代を実現したい!」との熱い一言が!
肌に優しい化粧品などの原料として木蝋の需要が高まっている一方で、高齢化により収穫者(ちぎり子)の担い手が減っているとのことで、特にみやき町では、長い間ハゼノキの手入れがされていなかったため、樹高が高過ぎて収穫作業が困難になっているのだそうです。
収穫作業がしやすくなるように、剪定を行うことによる「低木化」を進めていきましょう、とのアドバイスをいただきました。
ハゼノキのさらなるポテンシャルを求めて
ハゼノキは果実からロウが採れるだけではありません。
その材で染めた衣料は「太陽の色」に例えられ、平安時代、天皇陛下のみが着用を許される「黄櫨染(こうろぜん)の御袍(ごほう)」という最高位の束帯装束があったように、古来より染色の素材として重宝されてきた歴史があります。
そんな「黄櫨染」を再現してみよう! ということで、去る1月25日、山田の風メンバー有志により櫨染めに挑戦しました。
講師は、様々な草木染め体験を行われている野口利雄さん。

染料として用いるのは、ハゼノキの幹の中心部の「心材」と言われる部分。
剪定・伐採した材には水分が多く、利用するためには10年以上乾燥させる必要があるのだそうです。


染めた布は、シルクの大判のハンカチと綿のオーガンジーの2種類。
まずは、ハゼノキの心材を粉砕し、チップ状にしたものを大きな鍋で煮出して、染液を作ります。
その染液にしばらく浸した後、冷水で洗い流すという作業を2回行った後、アルミ媒染で色止めを施しました。
染めあがった布は、シルクの方はレモンのような、綿の方は少し濃く山吹色に近い感じ、どちらもまさに「太陽の色」という言葉がぴったりな鮮やかな色に染まりました!
実際に木蝋を搾ってみよう!
櫨染め体験の後、みやき町の風の館に移動し、木蝋搾りのデモンストレーションが行われました。
櫨に関わる取組の関係者だけでなく、ラジオや新聞で知った町内外の方々が30名程度集まりました。
講師は、中原の豊かな自然を守る会会長の寺﨑彪さん。

まずは、事前に準備しておいたハゼノキの実の粉末(ティーバッグ状にしたもの)を30~45分かけて蒸します。
次に、蒸して柔らかくなったものを冷めないよう加熱しながら、寺﨑さんが開発した簡便な木蝋搾り機を使って手作業で圧縮していきます。
この簡便な木蝋搾り機のもとになった大規模な木蝋搾り機(ジャッキで圧搾)は、平成20(2008)年、町内の様々なイベントで使用するための木蝋を一定量生産するために、鳳星木蝋の経営者のご子息である石橋龍吾さんが工場跡の建屋に独自に開発・設置されたものです。
これにより、およそ50 年ぶりに木蝋作りが復活しました!
それから15年にわたり守る会会員の協力によって木蝋が生産され、中原小学校で毎年体験学習を行ってこられましたが、コロナ禍や石橋さんが他界されたことなどにより、現在活動を休止されています。

最後に、一般に流通しているろうそく(石油由来のパラフィンが原料)と、木蝋で作った和ろうそくに火をつけて、その炎のゆらぎを見比べてみました。
参加者の方からは、「炎のゆらぎに癒される」「和ろうそくの方がゆらぎが大きい」「和ろうそくがなくなってしまうのはもったいない!」などの声が挙がりました。
作ってきた過程を見守ってきたからこそ、その価値を深く知ることができたようです。

中原のシンボル、ハゼノキを次世代へ
長年活動に携わってきた寺﨑さんは、「活動の原動力は中原に対する想い」であると言います。
昔はハゼノキがある風景が当たり前にあったそうですが、大規模な圃場整備により、ハゼ畑は今ではほとんどが消滅してしまいました。

みやき町の中原小・中学校及び三養基高校三校の校歌に「はぜもみじ」という歌詞が登場します。
“ 秋は錦のはぜもみじ ”
(中原小学校の校歌の一節)
「ハゼノキは旧中原町の町木であり、中原のシンボル。若い人たちと一緒に活動すれば、次の世代に引き継げるのではないかと希望を持っている。」と寺﨑さんは語ります。
ハゼノキがある風景と文化を次世代へ引き継ぐため、麻生さんと寺﨑さんの挑戦は続きます。


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